30代女性。転校や学校行事の不安や緊張が原因でうつ病を発症。改善することで他人の評価よりも自分がどうしたいかを考える力を養うことができた。

ペンネームのりこと申します。私は現在35歳の女性で、結婚歴と離婚歴あり、小学校高学年の子どもがいます。
地元の通信制の高校卒業後、販売や小売、飲食など色々接客業を経験し(ライフスタイルに合わせて正社員やパート、バイトなど変化あり)4年ほど前に資格を取り、今は介護士として働いています。

生まれも育ちも京都府の主要都市ですが、この地位はガラが悪いと言われる地域です、
子供のころは、ずっとそこに住んでいるため気付きませんでしたが、大人になり、地元を離れて就職してから、自分の育ってきた地域がいかに世間では「まともでない地域」かという事を思いしりました。

現在自分も人の親となって、実家近くの場所で子育てをしていますが、早くここから離れたいと思っています。

転校した事がキッカケでうつ病に。中学で初めての行事や発表会で緊張や不安が重なった。

私は人生で数回、うつ病を経験していますが、いちばん初めにうつ病になったのは、中学校一年生で転校をした事がきっかけでした。

もともと私は変化に弱い性格をもっており、保育園や小学校の頃からいつもとは違う行事、例えば運動会や発表会などの前は、自分でも分からない不安と緊張があり、当日を迎えるまでは憂欝で仕方がありませんでした。

自分の確固たる世界というものが幼いころから存在していて、絵を描く事や空想の中で遊ぶことが大好きな子供でした。

そんな私を、母親は心配に思っていたようで、子供は子供らしく外で遊びなさい!と家から追い出されたり、私はひとりで遊びたいのに同級生の家に電話をして放課後に遊びにいかされる…ということもありました。

中1の転校は私には抗えない事で、嫌々ながらも家庭の事情で親に従って転校しましたが、変化に弱い私なので、新しい学校になかなかなじめず、でもムリをすれば皆に合わせる事は出来た為、自分の中でどんどん我慢がたまっていき、うつ病が発症しました。

引っ越しや転校のストレスが大きく職段階で対応することができず重篤化した。

中学生で発症したうつ病が、治癒までに人生の中でもっとも長い時間を費やしました。
とうのも、当時子供だった私は、心療内科や精神科に連れて行って欲しいと親に言う事も出来ず、鬱病の始まりの初期段階で対応する事ができずに重篤化してしまったのです。

始めは寝就きが悪くなりました。しかし、もともとよく眠れるタイプでもなかったので、引越しや転校のストレスと、家がすごく寒かったのでそのせいもあるのだろうと思っていました。

いま思えば、異様に体感温度が低く感じられた事もうつ病の初期症状なのですが、当時ははじめての事で何も分りませんでした。

眠れないせいもあり、記憶力や体力が落ち、段々と不登校気味になって行きました。
完全に不登校になるまでに2年費やしたのですが、日常をそつなくこなす事を必死に頑張っていたので、親に気付かれる事もなく、最悪の状態から改善したといえるまでにはさらに1年以上かかりました。

病院にはかかっていなかあったので、初めてのうつ病の時には1円も費用をかけず改善しましたが、そのせいでのべ4年もかかってしまいました。

情けない、辛い、死にたい、殺してほしい、消えたいなど負のスパイラルに

うつ病当時の最悪な状態の時の自分は、とにかく、情けない、辛い、死にたい、殺してほしい、消えたい、でも自殺をしたら親兄弟に迷惑がかかる…と堂々巡りの負のスパイラルに陥っていました。

何が悲しいのかも分からないけれど涙が溢れて来る…中3の時はそんな毎日でした。
私の親は二人とも教育関係者なので、父親からは「親の顔に泥を塗りやがって」といわれて殴られたり、同居の祖母(父方の祖母)からは嫌味を言われたりしましたが、そのうち何も言わなくなりました。

母は私の心に寄りそう努力をしていたようですが(それはわかるのですが)なんとも頓珍漢というか、やっぱり子供のころと同じで、母の理想の型に私をはめたいという意識が見えて、鬱陶しく感じていました。

心療内科や精神科にかかってとにかくカラダをと脳を休めることに取り組んだ。

中学生で発症したときには、この知識を役立てる事が出来なかったのですが、うつ病改善の為に一番いい方法は、とにかく体を休める、脳を休める事です。

うつ病になり易い人は、何事にも真面目で手を抜く事が苦手、息抜きも苦手、という特徴があるといわれており、わたしにもしっかり当てはまります。

そんな傾向のある人は、たとえ不登校や休職中で体は休んでいるはずでも、頭の中で色々な事を考えすぎており、ちっとも休めていないという事が本当に多くあるのです。

うつ病になる様な状態というのは、体も心(脳)も疲れきっている状態ですから、その疲れを取るのが一番の薬です。

具体的には心療内科や精神科にかかって、身体的、精神的な疲れを取りのぞく為にお薬を処方してもらったり、カウンセリングをきちんと受けることです。

TVの騒音が気にならなくなった。少しつづできることが増えていった。

始めは本当にささいなことで、テレビをみて「うるさい」と感じなくなった、とか、人の気配を感じても動機がしなくなっている事にきづいた、とかそのような事でした。

そういう状態が、一日の中で数分でもある事が普通になっていくと、勇気を出して人の少ない時間にコンビニに行こうと思える様になったり…それでも、夜中にコンビニに行く途中で車が後ろから近付いてきて、緊張と不安のあまり過呼吸になる事がありましたが、そんな事になっても「大丈夫、いずれおさまる」と思えるようになっていきました。

また、転校前に仲のよかった友達からの誘いに応じられるようになって行きました。
本当に少しずつ、出来るようになっていくことが増えて行くという感じでした。

周りの評価が変わることはなかった。

うつ病が改善される事で、周りの評価が変わったという事は特にありません。
同居の祖母は相変わらず、母に私の事やほかの兄弟のことでもで辛く当っていましたし、父はアルコールを飲んではたまに大暴れして救急車を呼ばれる様な騒動になる…という事は続いていました。

母は私が自分の友達と会えるくらいまで回復してくると、引越し転校前に私が懐いていた近所のおばちゃんを家に招いて、私が気分転換出来るようにはからってくれていた事は今でも覚えています。

先生たちには見放されていたのですが、私はもともとは成績がよかったので学校側の意地として?高校進学を勧める為に家庭訪問をされる事がありましたが、私は学校という環境が恐怖体験だったので、中学卒業後すぐには進学はしませんでした。

自分の小さな器を受け入れることが一步。

今 うつ病でしんどい人、悩みがいっぱいのひと、死んでしまいたい人、殺してほしいと思っている人、私はそんな人を否定する事は出来ません。

生きていても辛いだけ、と思う事は、うつ病が治った今でもたまに感じる事があります。
でも、きっと、人生で一度もうつ病を経験したことがない人でも、そう思ってしまう事はあると思うのです。

上手くいかないとき、自分が自分の人生をコントロールできない時、そんなときもあっていいのだと、自分の小さな器を受け入れる事が治療の第一歩ではないでしょうか。

私たちは完璧主義で、自分にも人にも厳しい人が多いのですが、緩く考える事、白か黒か、0か100かではなく曖昧さや多少の矛盾を自分にも他人にもを許すこと、そんなことから、段々と人生に対する深刻さや不安が薄れ、他人の評価よりも自分がどうしたいかを考える力を養うことができてきました。